デザインとアートのコンテクスト
デザインって仕事をしていて、趣味が芸術館とかアートフェスめぐりのため、「どこそこの芸術祭に行ってきた」って知人にいうと「勉強のため?」とか「デザイナーだもんねー」みたいな返しがあることが多い。
デザイナーとかやってて美術館とか行ってると人に言うと「勉強のため?」とか言われることがあるんだけどそんなストイックではないです。デザインを忘れるためにアートを見に行ってるようなもので圧倒的にただの趣味なんだけど、まあアートとデザインの違いの一般的認識なんてこんなものだよね。
— ottiee (@ottiee) 2015, 5月 24
アートの鑑賞は基本的に趣味で、インスピレーションをもらうことはあるけど、仕事に結びついて見てることはほとんどなくて、たまーに構図や色彩設計をパクってみよう参考にしてみようと思うことはあるんですが。
一般的にデザインとアートは混同されるのは百も承知してるんだけど、毎回デザインとアートはすごーく遠くの親戚みたいなものだと話すのもめんどくさくなってきた。
そもそもルネッサンス期あたりまでの絵画作品と、現代アートと呼ばれる作品群を、アートとしてひとくくりにしてるのが上記のような誤解を生んでるんじゃないかとも思う。これはまた今度書こう。
デザインとアートのコンテクスト
コンテクストという観点でデザインとアート(主に現代アート)について考える。 コンテクストは文脈とか背景とか訳されるみたい。たとえば同棲中の彼女がいて、家にちょっと古いジャガイモと玉ねぎがあって、「今日は人参と豚肉買って帰るよー」ってLINEが来たら晩御飯カレーってわかる。複数人の間で当たり前に認識している前提みたいなものですね。この例え書いてて死にそうになった。
現代アートのコンテクスト
現代アートはこのコンテクストがすごく強い。作品そのものを見ているだけでは当然ふーんとかうーんとかよくわからない、っていう感想になるのは当たり前の話です。前提条件が共有されてないから。
たとえば、キャンバスを真っ黒に塗りつぶした作品があったとして、それは視覚的に見れば黒い壁面を見ているのと変わらないけれど、写真の登場によって絵画の記録という役割を譲らなければならなかった平面表現の模索の系譜や、絵画的表現みたいな固定観念を具象や抽象がどう立ち向かっていったのか、というバックグラウンドを知っていると、ちょっと見え方が違ってくる。日本で人気の印象派(ルノワールとかモネとか)やゴッホやミレーだって見ようによっては落書きだったりする。それらを鑑賞するのには一定のコンテクストが必要。
視覚的快楽を中心としたアートに小難しい解釈やコンセプトの理解が必要になってしまったのは大衆的な美の享受ってところでどうかなってのも思ったりはするんだけども、まあ突き詰めるとこういう感じになっていくものなのかもしれない。
デザインのコンテクスト
ひるがえって、デザインはこのコンテクストをできるだけ必要としないように設計されるべきものなのだと思う。ユニバーサルデザイン(言語の異なる人でも共通に使えることを意識したデザイン)とか、学習コスト(ユーザーがあるプロダクトを使えるようにかかる時間や勉強のコスト)を下げる、みたいなことはコンテクストをいかに除外するかとほぼ同意という気がしてる。
ただし、ビジュアルのデザインについてはやはりコンテクストは強く影響しているのも事実。ビジュアルに求められる今っぽさや流行りっていうのは時代の影響を強く受ける。アプリやウェブのスタートページで、大きな写真を背景にして少しぼかして、Helveticaの細いフォントでコピーを乗せる、そんなビジュアルじゃなければダサいみたいな風潮は、それを良しとした多くの人々の共通認識の上に成り立っている。
設計としてのデザインがコンテクストを排除するべく働くのに対して、ビジュアル、要はアウトプットとして人が認識するデザインの良し悪しがコンテクストに強く作用されるというのが、アートとデザインは近くて遠い親戚みたいなものという関係性を生み出している一因なのかもしれない。
というポエムでした。