not simple

デザインと言葉の実験です

くだらない人、一日目 / 火曜日 / 友人の話

私の人生において、十代前半というものはまるで無のようなものだった。私には両親とひとりの兄がいるが、別に虐待を受けるわけでもなく、過保護に育てられるわけでもなく、球を磨くように厳しく教育されたわけでもない。まるで平凡、無刺激、ありふれた、面白みに欠けた十五年間だったというわけだ。

それなりの勉強をし、順当に進学し、アルバイトをして小金を稼いではくだらない遊びに浪費し、学友とありふれた小競り合いなどもあったりはしたが、辟易するほど普通だ。当時から私はこのような私と、私の状況を、今思っても不思議なくらい、俯瞰して見ていたように思う。全てがくだらない。ここに私の人格を構成した要素は無いと言える。断言してもいい。一切無い、一切だ。

しかし、十七歳から十八歳になって、ちょっと経った時のことと記憶しているが、「あること」をきっかけに、その後二十年ほど続くことになる私の死へ道程に、大きな影響を与えることが起きた。それ以来、思考に、感情に、もやがかかっているような状態が続くようになった。その原因である「あること」についてははっきり記憶している。

美醜の転換を目撃した。体験した。身を以て真に体験した。短期間のうちに二回も。

一つ目のそれは、私の友人の話だ。彼は北海道出身で、上京し、東京西部のある市で一人暮らしをしていた。たまたま入った小さな飲み屋の店員で、何の話しをしたのかはまるで覚えてないが、なんとなく意気投合し、しばらくすると、彼の自宅で夜な夜なテレビゲームをするくらい、よく遊ぶようになった。歳は私の四・五くらい上だったように思うが、はっきり尋ねたこともなかった。

特に定職にはつかず、複数のアルバイトを掛け持ちしつつ、ころころとその構成を変えているのが常であった。そのため、別段人生に確固たる目的があって生きているようには見えなかったが、体躯は引き締まり、頭脳は明晰でややシニカル、判断は常に早く、なにより知識が豊富な人であった。私の脳に非常に多くの、そして無駄な知識が詰め込まれているのは彼の影響と言っていい。

前述の通りのくだらない十五年の後に出会った、なんとも方向性のつかない、自分の持たざるものを持つこの人は、少なくとも私にとっては好ましく、友であり、師であり、好人物と世間一般で言われる人物であったと思う。美しい人だと思った。

ある日、友人は自宅で、湯の中で溶けていた。

学校の帰り、ふと実家に帰るのが面倒になり、遊び相手が見つからなかった私は、彼に連絡を取ってみたが反応がない。いわゆる筆まめで、仕事中でもメールを平気で返すような人だったので、不思議に思ったものの、新宿あたりをうろうろして時間を潰していた。余談だが、当時は学生服で深夜まで徘徊していても、性根の悪い店であれば酒を飲んでも咎められなかったのだから、良い時代、いや、悪い時代だったと思う。

うっかり実家に戻るための終電を逃し、連絡は取れなくとも、行けば泊めてはくれるくらいの情けはあるだろう、と思い彼の自宅に向かった。その時に居たかどうかは知らないが、彼の彼女でも来てるのであれば、適当にそこらへんをうろついて時間を潰そう、というような軽い気持ちの行進であった。

待ち受けていたのは、浴槽に膨れ上がった上半身を残した、美しかった人だった。

現在から見てみれば、ろくでもないセキュリティの六室だけの小さなアパートで、しかも彼は部屋の鍵もかけてなかったから、私はすんなりと侵入し、望むわけでもなく第一発見者というやつになった。入居者が彼以外たった一人だったため発見が遅れた、と説明をされたが、そんなはずはない、と断定せざるを得ないほどの臭気が、ドアを開ける前から周囲を蹂躙していたことを覚えている。

外傷もないため、入浴中に心臓発作を起こし、風呂の追い炊きをしながら浸かったため、下半身がまるで煮えたような状態で見つかったのだという。真偽のほどは専門家でもないので分からないが、「人も牛や豚や鶏のように、煮られれば柔らかくなるものなのだな」と普通に考えれば当たり前、なんの工夫も新しさもない思考が生まれたことを覚えている。

これが私の美と醜の転換の体験、一つ目の「あること」だ。

気味の悪い話だったかもしれない。君の顔色があまり良くなく見える、それこそ病床の私より悪く見えるから、これ以降のお話はここら辺で控えて、いったんおしまいにしよう。次はもう少し、美しい話をしたいね。


「確かに僕の顔色は悪かったかもしれないが、君の顔色、それは黄土色に紫がかかったようだったけれど、それと対比されるほどは酷くはなかったと思う。僕には君の残り時間が少ないことだけがわかった。」

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