くだらない人、零日目 / 某日 / 序
人に乞われて文を遺す。
どうにも面倒なことを頼まれたものだと後悔はしている。だが、知人として、おそらく今の彼にとっては、連絡の取れ得る唯一ただひとりの知人として、その責を全うする所存である。
これは彼に言わせれば遺書ということであるが、世間一般でいうところの遺書では間違いなく無い。資産の分配がどうとか、後継者はなんたら、という話のものでは決して無いし、そもそも分配する資産も、後継すべき地位も技術も、彼はそういったのものは一切何も、何一つだって持ち合わせていないのだから。
彼が持っていたものはたったの二つ、美しいものへの執着と愛憎だ。それだけだ。それによって己を壊し、崩し、治してはまた壊し、もはや再生せしめぬところまできたところで、不意に彼の生は終末を迎えてしまった。
彼は生前、いや、もはや生きているのか甚だ疑問とされるような状態で、私に頼んだ。彼が見て、感じ、思考し、体験して得たそれらを文として、言葉として遺すことを頼んだ。彼は元々、口達者ではなく、話せば文脈もなくあちこち飛ぶし、文を書けばおぼろげで、終始ふうわりとしていたから、僕に頼むのが最適だと思ったのだろう。
彼にとっては自身の存在を遺す、というつもりだったかもしれないが、僕に言わせれば、こんなものは思考と感情の単なる暴走の発露に過ぎない。彼の言う、「唾棄すべき美ならざる誠にくだらない」駄文が出来上がるだろうから、それを持って手向けとするものである。
以下、彼の病床で何度かの対面のもと、インタビューというほどしっかりしたものでは無いが、僕が聞き出したことをある程度の体裁を整えつつ書いていく。突然始まる世間話や、どうでもいい挨拶、そして彼自身が望まない内容は削っている。
ジャークチキン的なもの
ゴールデンウィークですね。私はゴールデンウィークで、つまりゴールデンウィークは私ですが、みなさんはゴールデンウィークですか?
ジャークチキンという食べ物があります。ジャマイカの郷土料理ということなのですが、会社の近くにお店があったり、近所のバーでしばしば美味しいそれを作って持ってきてくれる人がいる、という文脈があり、なんとなく自作しようという結果がこれです。
で、色々調べてみるとジャークチキン自体「肉をスパイスとかに漬け込んで焼く」みたいな雑な思想のもの作られているということが知れ、好き勝手やっても怒られは発生しないだろうという認識が生まれ、好き勝手やりました。
実験です
素材です。もも肉です。本当は切ってない状態でやるのがいいんでしょうが、めんどくさかったという理由があります。
これがうまいことできると、すなわち勝ちなのですが、今回のこれは
あたりを調合しています。まぜるとこのように
色味的にはやばい状態になりますが、味は大丈夫です。
肉は切れてるので、揉んで1時間くらいほっとけばだいたい良いという学びがありました。一晩ほっといたのと大差なかった。
あとはオーブン的なので30分くらい放置しとけばできます。
別バージョンでフライパンでアレして
残った肉汁とにんにくでガーリックライス作ったのち
盛り付けるとできます。
まとめ
スパイスの調合はターメリックをやや多めに入れたため、香辛料苦手な人は食べづらいかもという反省と、クミンとか花山椒とか、ピンクやブラックなどペッパー系は色々調整できそう、という学びがありました。
味の基本は把握したのでこれからもやっていこうと思います。ありがとうございました。
カレー南蛮そば
年始からデザイン系の話はnoteに寄せてくという遊びの結果、更新が滞っているブログです、こんにちは。
noteの方はこちらで
比較的真面目に書いてしまっているというのがあり、文体を破綻させることができないのでつらい。
カレー南蛮そば
で、本題のカレー南蛮そばについてですが、よく知られているように、週1くらいで摂取しないと魂の破綻を招くことが知られている食べ物のひとつです。定期的な摂取を怠った結果、精神に異常をきたしてしまった作家といえばトルストイやラブクラフトが有名ですが、彼らの名誉のために書いておくとこれは嘘です。今考えました。
本質
カレー南蛮そばの本質的な魅力とはなんでしょう?それは背徳感であるといえます。
カレー南蛮そばを食べるとき、人は背徳的なことをしているような体験を覚えます。店主のこだわりにより丁寧に作られた香り高いそばに、カレーというまた香りの強いものを合わせて食べる、これはそば、そしてそれを作った人に対する冒涜であるといえます。前述の背徳感はここからきているという論説が主流ですが、出汁の風味強めだったら別によくね?という派閥もあり、争いが絶えません。人は争う生き物です。
多様性
争いの話といえば、カレー南蛮そばに使われる肉として、鶏肉を使うか豚肉を使うか、という論争が古くから存在しており、宗教的戒律という要素も組み合わさり、長らく収拾がつかない事態となっています。少数ですが、肉を使わなければ良いという過激な派閥や、羊肉や牛肉を使うべきという派閥も存在しますが、前者のカレー南蛮そばのがっかり感、後者のコレジャナイ感が強すぎるため、カレー南蛮そばの国際会議でもそもそも議題に上ることが少ないという現実があります。
多様性が失われていく過程をカレー南蛮そばで見ることができ、社会学的には重要なサンプルであるということを付け加えておきます。
期待
カレー南蛮そばを食する人の期待は様々で、重要視されるポイントが違うのですが、大きくわけて「出汁偏重型」「カレー偏重型」に分けることができます。前者については通常そばを食される際に用いられるカツオや鯖節でとった出汁の味がたつことを重視しますが、後者ではカレーに使われるクミンやカルダモンなどのスパイスの香りが立つことが重視されます。
そばとの相性を考えた場合、後者の方は異端とされ、前者の方が優位と考えられますが、そば屋の店主というのは素材にこだわりを持つ人が多いという傾向があります。ちなみに素材にこだわり、打ち方にこだわり、食べ方にこだわり、客にそれを強制するようなそば屋は滅びることが約束されていています。
そのような店の場合、いざカレー南蛮そばを作ろうとしたときに、スパイスにこだわり始めてしまうことも多く、本格的なインド・パキスタンカレーのような香りを持つカレー南蛮そばを生成してしまい、店主の左足が持っていかれてしまった、という報告がなされたことあります。悲しいことです。
終わりに
最近会社の近くで食べたカレー南蛮そばなんですが
「パプリカ・ナス・ポテト・鶏肉」の組み合わせでかつ「カレー偏重型」のものだったので悲しみが生まれ、この記事が出来上がりました。
普通のカレー南蛮そば食べたい。
松茸×肉
正月にすき焼き食べる文化があるというのをこの歳になるまで知らなくて、なんとなくやってみようという流れがあり、せっかくやるんだったらなんか変化をつけたいなと思ったのですが、味自体をアレンジすると期待値はずしてコレジャナイ感出そうだなという予防線の結果、肉以外の分量をよくわかんない感じにする、という解を得たので、結果です。
参考はご察しの通りで、今最も熱い料理漫画(?)「飯にしましょう」の2巻18膳に登場している「松茸すき焼き的なもの」で、この漫画は基本分量が記載されていないので参考なるかは微妙ですが、最高なんでみなさん買いましょう。
めしにしましょう(2) 【電子限定カラーレシピ付き】 (イブニングコミックス)
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まずは松茸ですが、1kg発注してます。
これは肉です(そんな高くない)。
ちなみに松茸はシーズン外なので当然冷凍ですが、肉300gに対して600g使用されています。倍量でいってます。このバランスが今回の頭のおかしいところです。
冷凍だと香りどうなのかなと思ったんですが個々の香りは弱いものの、ぶっちゃけ物量でカバーでき、むせかえるくらい松茸臭します。これが集団の力です。
半解凍して切るんですが、この時点でもう手が松茸匂でむせかえるほどひどい。
準備。
ちょっと焼いて香りを出してから
割り下オン。
割り下は別で作っており、醤油と砂糖と正月飲み残した酒、あとなんとなく白だし入れました。なんか白だし入れとけば大丈夫だろうという信頼感というか怠惰です。分量はなんかいい感じにしておけばいいですが、あとで卵にコーティングされるので割と甘さとか濃いめにしておくとリカバリーも効くのでいいんじゃないでしょうか。
一撃目は煮るというより焼く感じで。
はい。
すごく知能指数の下がる味がしており、人間が終わってしまいました。
二撃目以降は知性が働いていないため
もはやよくわからなくっており、わからなくなっています。?わからない?わからないとは?
今回は松茸x肉を頭おかしい分量でやる、というのが主題だったので野菜はネギだけでしたが、葉物として春菊とかあったほうが当然完成度は上がるはずなので次回以降はそうしていきます。次回はあるのでしょうか。人生はわからないです。
神の庭
これは神の庭の話です。
この庭の神はいつでも無口で不機嫌なので、使用人はいつでも神経質でした。
庭にはいくつかの美しいトチノキがあり使用人のレストルフはそれの手入れをしていました。 他の多くの使用人と同じようにレストルフは神経質で、トチノキがいつでも素晴らしい形状を保つように、それぞれの枝についている葉の数を同じにするほど気を使っていました。
また庭には美しく整備された芝生があり使用人のオッカムはそれを美しく管理していました。 レストルフと同じようにオッカムは神経質で、芝生がいつでも美しい緑を保つように、ひとつひとつの葉を手作業で毎日ふいていました。
ある日レストルフがいつもの神経質な点検を終えて、しばらくの休憩をとっている間に、庭の芝生を管理している使用人のオッカムがカミソリでトチノキの葉を切り落としてしましました。神の芝生に影ができていることに怒ってのことでした。
トチノキは枯れて、レストルフは管理不行き届きとして神の怒りに触れ、足を切り落とされてしまいました。オッカムもトチノキを枯らした原因を作ったとして、2度とカミソリを使えないように腕を切り落とされてしまいました。
時を経たずして、庭の芝生も台無しになってしまいましたが、神は新しいトチノキと新しい芝生の管理人を用意しました。 神の庭はたちまち元どおりになり、神の庭はいまも美しいまま保たれているということです。
2017年振り返り / デザイナーとして
ひさびさにブログを更新しているということで年末暇なんだなこいつ、ということが予想されますがその通りです。デザイナーとしての今年の振り返りを書きます。
お仕事としては飽きもせず、2017年もデザイナーとして過ごしたのですが、振り返ってみると今年は特にいわゆる「見た目のデザイン」みたいなとこ以外のデザインを重点的に考えやっていた気がします。デザインチームの構築、メンバーの成長、組織全体へのデザインの浸透、みたいなところが主だったところです。
デザインチームの構築
2017年はじめ、現在所属している組織ではデザイナーが数名所属していたのですが、プロジェクト配置型になっており、デザイナーの横断的な組織がなく、ゆるい横断的なつながりが存在するのみでした。人によってはデザインの仕事が無くなってずっとリサーチとか資料作成やっていた人もおり、悲しみがありました。
プロジェクトにデザイナーががっつりはいってやること自体は賛成派なのですが、往往にして「アサインされたサービスが成功している is デザイナーとしてすごい」という評価になりがち、かつ逆も然りになるので、本当に優秀でスキルのあるデザイナーを適切な配置にできなかったあげく、組織として失うのはリスクじゃない、という危機感があり、偉い人にお願いして組織化した、という経緯があります。
その時の思いがブログで残ってました。振り返り感あります。 ottiee.hatenablog.com
で、だいたい組織一年回してきて、まあ概ね良かったんじゃないかな、という思いがあります。それなりにデザインチームも認知されてきて、社内だけでなくグループ会社からの依頼とかも増えてきて、ちょっと人足りない感すら出てきているので良い傾向です。デザインの大事さ、みたいな認知も少しずつ上がってきてるんじゃないかな、多分。
メンバーの成長
チームのメンバーにタスクをお任せすることが多くなっています。もちろん信頼の上でやっているわけですが、成長軸の観点が大きいと思われます。特に最近顕著なのですが、自分の成長よりメンバーの成長をがモチベーションになってる傾向があり、後輩のデザイナーがいいデザインを提出してくると自分がデザイン作って採用されたりするより嬉しくなったり、ディレクションよりの業務を任せた時にうまく回したりとか、会議のファシリテーションがうまくなったりとか、そういうのが仕事のモチベーションの主軸になってきています。なんか老いている感があり、そろそろ死期が迫ってるんじゃないかな、と書いてて思いました。
組織全体へのデザインの浸透
前述二項と関連しますが、これも意識的にやっていたことでした。勉強会やったり、社内掲示物やグッズを作りまくったり、会社のエレメントを変更してみたり。見た目のデザインも大事だし、業務の設計や組織のあれこれもデザインの範疇というか本質で、やりきれてないですが、組織全体で少しは意識向上したんじゃないかな、とは思ってます。継続的に、かつ深度を深めて取り組む来年の課題です。
まとめ
来年も頑張るぞ。
横浜トリエンナーレ2017
http://www.yokohamatriennale.jp/2017/
このブログ書いている2017/11/05が最終日の横浜トリエンナーレ2017
色彩豊かでよかったので、撮った写真を貼っていきます。
前回のトリエンナーレは難解すぎて
「うーん」という感想しか生まれなかったのですが
今回はなんかよかったという感想があり
なんでかなー、と思ったりもしたんですが
ここらへん結構個人的な趣向と当日のコンディションの問題が大きいというのが
なかば確信に近くあったりするので
食わず嫌いせずいろいろいくのが良いのかなと。