emosiという現代アートについて
これはなに
nanapi(現Supership)がかつて運営していたemosiというサービスがあり、それについて書いています。
emosiについて
emosiというスマホ向けのアプリの存在がありました。
ハウツーサイトの「nanapi」を運営しているnanapiが作ったアプリで2014年末にリリースされてました。
「ネガティブな感情をポジティブに変えてくれる、新感覚コミュニケーションアプリ」といううたい文句で
ユーザーが画像・音声・動画を投稿し、それに対して他のユーザーが画像・音声・動画でリアクションを返す、というものです。
ここで大事なのが、テキストでのコミュニケーションを排除している点です。
Twitter、LINEに代表されるように、テキストでのコミュニケーションはネガティブな感情を産みやすく
非言語でのコミュニケーションはネガティブな感情を産みづらいという仮説があります。
nanapiの新サービスemosiは、テキストを使わずにコミュニケーションを実現する | TechCrunch Japan
けんすうさんのいくつかのインタビューを読む限り、
- ユーザーが落ち込んでる時に「つらい」と音声を投稿
- 他のユーザーが綺麗な風景写真を返す
みたいな動きを想定されていたようです。
非言語のコミュニケーションで、ネガティブな感情を産むのを抑え、ポジティブに変える、という流れですね。
結果
ユーザーはいつでも作り手の想定外の動きをするのが常です。
リリース後半年経ったemosiはどのようになったのか見てみましょう。
ファーストビューがこちらになります。
そこには異世界があります。
このモザイクがかったサムネイルをタップすると、以下のような非言語コミュニケーションが生まれています。
脈絡、文脈とはなんでしょうか。
現代アートとして捉えた場合のemosi
誤解をおそれずいえば、このアウトプットは現代アートのそれです。
スマホのコミュニティという場を使ったユーザー参加型のインスタレーションアートだという理解があります。
現代アートとは (ゲンダイアートとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
emosiで行われるコミュニケーションがなぜ現代アートに近い体験を得るのかというと
- コンテキストの欠落
- 情報量の多さ
が要素として強いのではと思います。
コンテキストの欠落
ユーザーの投稿した画像がたとえば猫だとか比較的テーマが絞りやすいものだと
同種の種類の画像が集まったりして、同調みたいなコミュニケーションが発生するものの
初手の投稿の抽象度の高さに応じて混沌の度合いが強くなっていき
それはアンコントローラブルで、作り手の想定を軽々と超えていきます。
言語でのコミュニケーションはやろうと思えば文脈やコンテキストをいくらでも説明でき
空気読んだり行間読んだり適切な返答がやりやすいのですが、非言語となるとそこが難しく
破綻したコミュニケーションが非連続性を産み
脈絡のない世界を発生させます。
情報量の多さ
世界観がぶっ飛んでしまった要因についてもうひとつ観点があり
コミュニケーションの成立には、画像や動画の持つ情報量が多すぎるのではないかという考えがあります。
同じ非言語でも、絵文字やスタンプといった情報量が少ないものではコミュニケーションが成り立つ、という経験はあるのですが
動画みたいに情報量の多いものに対して、同レベルの情報量のものでリアクションするのは厳しいというのもあるのかなと。
そもそもスマホのライブラリに適切な画像なり動画が存在しない問題もあります。
まとめ
モノをデザインしていてそれが期せずしてアートに変貌することはままあるのですが
それをコミュニティをデザインしていてたら結果アートになっているっていうは初めて見た気がします。
ぜひ横浜トリエンナーレとか京都国際現代芸術祭とかに出展して欲しいと本気で思っています。
文脈
なお、この記事は2015年(nanapi入社前)に書いたブログをリライトしたものですが、なんでそんなことをしたのかというと文脈があり
今の会社を選んだ理由の一つがemosiという現代アートをやっていたから、というのがありますhttps://t.co/ZIBJyHSGAO https://t.co/ZIBJyHSGAO
— ottiee (@ottiee) 2017年6月7日
これがそれです。
nanapiに入社する前に、たまたま何かでemosiを触っていて
世界観ぶっ飛んでるなー、という所感を持つに至り
たまたまふらふらしてる時(要は無職の時)にnanapiに話聞きに行ったところ
発案者である @kensuu にも同様の所感を持つに至り
面白みを感じ、今の今までお世話になっています。
アプリUIデザイナーとして面接に行った際
「非接触デバイスでなんかいいアイディアないですか」
という要旨のことを問われたことを僕は忘れません。