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デザインと言葉の実験です

マネジメントについて、あるいはマネジメントおじさんとの対話

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はじめに

脳内対話という名の妄想です。

結論としての、それ

マネジメントにベストプラクティスは存在しない、そんなことは誰しも知っている。だからマネージャーはいつも正解を知らないんだ。

思想としての、それ

マネジメントとはある目標を達することを動機とした、人を有り様に指向性を持って動かすための思想とそれに紐づく手段の集積だ。思想といったね、例えば中国古代に孔子は礼を用いてただの人の集合体を組織化しようとしたとも言えるし、マキャヴェッリは大衆の愚を前提とした組織の操り方を提案したとも言えるし、やや現代に目線を移すとチェスターの道徳の創造というのもひとつの思想だ。孫子なんか最高だ。ドラッカー?あれはただの格言集だ。

ずっと昔から、おそらく人間が集団生活を始めたほとんど猿だった頃から、人間は集団をひとつの指向性を持って動かすことに執着してきた。それがマネジメントの本質であり、未だに解決され得ない要因でもある。ほとんど本能的に人は(今風に言うと)マネジメントするんだ。

手段としての、それ

ほとんどの場合、僕らの言うマネジメントとは手段にすぎないんだ。人、あるいは集団の方向付けをし、目的を成すために施される手段なんだ。そしてほとんどの場合、組織にはそういった手段が必要だ。組織においてマネジメントをするマネージャーはそれを執り行う人だから、すべてにおいて(可能な限り)適切な手段を提示しなければならないし、最適解を求め続けなければならないし、それだけがあなたの責務になる。ただし、それが必要でない人や組織に対して無理矢理にそれを施すのはそれこそ害悪でしかない。極端な話、マネジメントを放棄することもの手段の一つで、マネージャーはときには仕事を捨てる勇気も必要だ。

ただし、手段にすぎないそれの最適解が見つからないし見つけ難い。これだけマネジメントの本も論考もある現代においても最高のものを選択するのは難しい。人と組織、そして文化、ああ、環境とも言い換えてもいい、それらの多様性が原因なんだとも思う。あなたのオフィスと僕のオフィスの場所が1,000kmも離れているならそれによって手段は変わるんだ。

例えばだけど、

君が100人を管轄するマネージャーだったとして、20人を解雇しなければならなかったとする。あなたはそれこそ慎重に選ばねばならない。行動の指針とするのは、ドラッガーだろうか?もしくは君主論?もしかしたら孔子関連の書物かもしれないし、はたまた老子なんて引用された日にはメンバーは不幸だよね。

逆に君が100人の組織を1000人に増やして10000倍の利益をあげる責務を負った時、指針にするのはジョブスかな、Mr.松下?それとも隣に座っている上司だろうか?

流動体としての、それ

僕は、少なくとも組織の目的のために「組織を運営」する人間にとって、柔軟な思考や行動は大事だと思うんだ。あるひとつのフレームワークに固執した途端、滅亡が見てくる気がしないかい?まずは組織が滅亡して、次にあなたが滅亡する。

例えば、さっき例に出したけれど、君主論のいうリーダーシップなんかを、相互作用が活発な良い環境の組織に「にわかリーダー」がその思想を持ち込んだなんて考えたら、それだけで僕は地元に戻って適当な仕事を始ると思うよ。

手段としてのマネージメントは、組織が目標に対して足りてない要素を発見して埋める、いや、隙間に水が自然に満たされるように自然に作用するのが一番だろう。それには柔軟性が何よりも必要で、繰り返しだけど、だから僕はマネージメントにひとつの型を作るのが馬鹿らしいと思うんだ。