not simple

デザインと言葉の実験です

くだらない人、六日目 / 土曜日 / 花

私は明確に、正確に、何一つ漏らさず、その姿を覚えている。最近は記憶もおぼろげだが、これだけは絶対だ。揺るぎようのない記憶だ。私は見た。それは真っ白なキャンバスに、なんの造作もなく大量に垂らされた、真っ赤な美しい、美しい様だった。雪の日に、突然に、唐突に、咲いた一輪の花だ。彼女の四肢はまるで雄しべのように広がり、その美しい花弁の中央に鎮座していた。

血液は優雅で甘美な曲線を描き広がり、私は生涯において二度とあのような美しいコントラストを見たことはない。一部飛び散った赤色はまるで熟練したデザイナーが計算し尽くした装飾のように、花弁の周辺を彩っていた。だがそれは無為自然に現れたのだ。現れてしまったのだ。

真の美だ。造作もない。まるで無意識に執行された偶然かつ必然の美だ。美しかった彼女は意図せず、私にとって、いや世界万物にとって最上の、最高の、究極と言える美に転化した。古今すべての芸術家が人生全てを捧げても到底到達しない、到達し得なかった美だ。

私は混乱しなかった。ただ見とれていた。ただただ見とれていた。眼下にあるその美をひたすらに、執拗に凝視していた。なんとかしてこの美しさ、そしてこの瞬間に生まれた奇妙な感情を、脳の奥底に焼き付け、定着させることに終始していた。

私が見た一人目の死は、美から醜へと転換した。

だがこの死はなんだ。

美に程度があるとしたら、普通の美を超越した美、もしかしたらそれは美と表現できるものではないものを、私は体験したのではないか。私のくだらない人生は、ここからひたすらに美に執着することになった。


それは何も変わらない日常だった。繰り返される不毛な日常だった。彼女に変わった様子も、私に変わった様子も、何もない怠惰な、素晴らしく生産性のない、いつものくだらない日々の中の一つの日だった。

なぜ彼女が、このような終焉を自ら選択したのかは、色々と捜査もあったようなのだが、結局のところ、わからなかった。わかりたくなかったと言ってもいいかもしれない。なんの前触れもなくそれは起きた。そして唯一、残された手がかり、それが君に預かってもらった例の二枚の便箋だ。君は頭が私より間違いなく良いから、あの奇妙な詩について理解ができるのではないかと思う。私は君の考察を聞いてみたいと思う。


「僕には、残された便箋についてひとつ確信があったが、あえて伝えなかった。伝えたら即座に彼はこの世から消えてしまうかもしれない。」

「僕には不思議だった。こんなに不遜で傲慢に、人の心を見透かす様に振る舞い、恥じらいもなく偏った知識を平然とひけらかす彼が、この文を、この文の真意を、十何年も読み解けなかったのかを。」

「僕は理解した。これは彼女の遺書では無い。これは彼女が、おそらくは入念に時間をかけて用意した、君の遺書だ。」