not simple

デザインと言葉の実験です

「この世界の片隅に」を見て無が生まれた話

konosekai.jp

見てきました。

個人的に★は無です。


戦時中の呉でつつましく暮らす女性の暮らしを描いた映画で

話自体は良くできていて

構成も2時間以上のアニメーションなのに

飽きずに見れたので

そこはすごいなあ、と思うものの

なにか始めから主人公の仕草に

あざとさというか現実感のなさを感じてしまい

まったく感情移入ができなかったんですね。


どんな映画もそれなりに楽しめる人なんですが

見ている間ずっと★2くらいだなーって感じでみていて

なんでかなーと考えてみたんですが



内省の結果、2つあり



1つ目はおそらく登場人物の

「自由意志の欠如」で

これは戦時中の話なので致し方はないと思いますがもやもやします。



2つ目の方が決定的で、なんか要所要所に

「感動の押し売り」

みたいな印象を持ってしまったんですね。

ネタバレになるので要所を書くのは控えますが

作り手の意図を強く感じてしまい

入り込めなかったという類のそれです。


ずっと★2でみてたんですが

映画のラストもご都合主義感あったのと

スタッフロールあとに

クラウドファウンディングでご協力いただいたみなさま、を

延々と見せつけられる苦行があり

なんか頑張って作りました!感を

出された印象があって

★が無になりました。


完全に

僕のひねくれたものの見方のせいで生まれた無であり

あとお話自体はふつうに面白いと思いますので

この世界の片隅に

おすすめしています。

心理学科を卒業したらデザイナーになってた話

今のチームには大学生のインターンが3名来てくれていて、新卒の就職活動とか大変そうだなー、と思ったので過去を振り返ってみるという実験です。

大学時代

某W大学の「文学部」心理学科といういびつな構造のところに4年間いました。

行動心理学とか認知心理学とか中心に学んでいましたが

まあ何をやっていたかというと統計学とネズミ小屋に篭ってひたすら実験するということです。

あとバイトしてた。

青春とは?

けっこうちゃんと就活

大学3年目になると自然と就活しよう、って気持ちになるもので

割とセミナーとか説明会とかちゃんと行ってました。

心理学を勉強していてその流れで仕事にするのって

当時だと臨床心理士とかそのまま研究職みたいな道しかなくて

なんとなく、中高から好きだったインターネット関連に

進むのかなー、とふわっと思ってたので

だいたいそういう企業にお話し聞きに行ったりしてました。

内定

まあ面接って出会いのものというのと、数打てば当たるということで

某インターネット関連のスクールだったり制作をやっている企業に内定を頂きました。

内定者バイトを大学3年の後半くらいからしていたのですが

思えばこれがデザイナーとしてのキャリアのスタートでした。

そこではWebデザイン関連の講師やったり

(なぜか後半はJavaとかDBとかサーバーの授業もしてた)

ホームページ作ったりしてたのですが

(典型的や闇受託案件)

そろそろ大学卒業が見えてくるタイミングで

なんかちがうな、と。

もうちょっと人の目に触れる

なんか

作りたくなったんですね。

まあ諸々事情が重なったというのもあったんですが

大学卒業直前で内定辞退。

もう一回就職

で、そんなタイミングなので

もちろん新卒採用の手札も残ってなく

就職浪人するより早く働きたいという思いがあって

たまたま転職サイトで見つけた

当時成長中だったWeb広告業界がデザイナー採用してて

面接行ったらすさまじいベンチャー感で

面白そうという判断で

入社しました。

内定辞退からここまで多分1ヶ月もかからなかったので

新卒採用ってやっぱりちょっと異常なんだろうな、って思いました。

採用にかかる長さも、あの人を選別するような雰囲気も。

その後

その会社は所属が8年と長くて

広告デザインやったり

受託のデザインやったり

自社メディアのサービスデザインやったり

ディレクションやったり

マネージャーやったり

十数人の非デザイナーをデザイナーに仕立て上げるという

謎の仕事もやりました。

どれもこれも最初は戸惑いながらも

まあやればなんとかなるんだな、と思います。

その後のその後

ほぼ会社の立ち上げメンバー的に仕事してて8年経過して

そうするとどうも

だんだん仕事がマネジメント寄りになってくるんですね、不思議と。

マネジメントって仕事はめっちゃ好きなんですが

なんかそろそろ手を動かさないと

錆びるな、と思い

転職して

今、インターネット界隈でデザインするおじさんになってます。

まとめ

なんとかなります。

(ちなみに新卒採用の時にお祈りされた会社に転職しました)

餃子と中毒

餃子は世間でよく知られているように中毒性のある危険な食べ物です。

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餃子は麻薬

餃子のその強い中毒性によって身を滅ぼし、社会的な立場を失った人を数多見ているので、法による規制が必要であると考えているのですが、国は動いてくれません。政治とはなんなのでしょう。私にはわかりません。

最近後輩の女子に「Pairsは麻薬です」(※1)という金言をいただきましたが、餃子も麻薬です。 (※1)Pairs はマッチングサービス、まあ純然たるただの出会い系です

餃子への管理と難しさ

餃子は定期的に摂取しなければ体内の霊子が減少し、人間として個を保てなくなるという学術的な知見は存在しますが、それであれば国の仕組みとして定期的な餃子の供給、それこそ予防接種や健康診断のような枠組みを用意して餃子の体内への取り込みについては国家レベルの管理が必要と考えています。

一度摂取すると定期的な摂取が必要であり、足りなくなると人間として個を保てなくなるという点で、餃子は麻薬と同等に捉えられてしかるべきなので管理が必要です。

ですが、餃子には地域独特に発展したものや、味のバリエーションが数多存在し、それぞれに独自の信仰が存在するという独特の問題を抱えています。

都内在住の人間が「ちょっと宇都宮まで餃子食べてくる」とかいう事例を過去に何度か確認していますが、餃子というどこでも食べれる料理を各駅停車だったら2時間はかかる距離を移動して食べに行くという、この異常性はなんとかしなければならないという強い意志があります。

もちろん「餃子を食べたい」->「宇都宮で餃子を食べる」という一連の体験自体に価値を見出すというUX的な論考も期待されますが、うるせえよ、という感じで棄却します。

結論

早急に対策が必要なのは、餃子という場合によっては危険物になりうる食べ物に、国としての一貫した共通見解を与えた上で、法、つまりキングダムでいうところの「国民にどうあってもらいたいか」を作るべきだと思っているくらい今餃子食べたい。

文章とデザイン

文章を書くことと、デザインはすごく似ているなあ、という最近の学びについて書きます

この文中でのデザインという言葉は、一般的な人が想起するであろうデザインのイメージ

要はビジュアルデザインやUIデザインなど、目に見えるデザインとしてのそれとなります

前提

言葉を使って物事をわかりやすく人に伝えるという能力に

長けているというか多分その手の天才が隣で仕事をしてて

その彼がプレゼン資料やブログを書いている様を見ていて

「ああ、これはデザインだ。」という思いに至っています

書くこと≒デザイン

文章もデザインも伝えたいことを整理してアウトプットするというもの

乱雑なアイディアの群れを捨てたり足したりして一つの塊を産むところや

どちらも基礎ができてなければ自由な表現が難しいというところも同じで

良いと思ってたものをいざ形にすると実はカスだったりするところも同じ

どれだけ推敲に推敲を重ねたとしてもそれが誰かに届いた時に響くか否か

実際に世に出してみて、フィードバックを得て初めてわかる点も同じです

文章が(ちゃんと)書ければたぶんデザインはできる

デザインのプロセスは発想の発散→取捨選択→整理の繰り返し

これは文章を組み立てる時の思考のプロセスと、とても似ていて

少なくともロジックであれこれするパートのデザインについては

きちんと意図を伝えるための文章を組み立てられる人だったなら

比較的簡便で単純なインターフェースのデザインくらいだったら

ちょっとソフトウェアの使い方を覚えればできちゃうんだろうな

という、デザイナーとして生きてる身としては危機感があります

逆も然り

文章を書くことは思考の整理の訓練にもなるし

デザイナーという肩書きで生きてる人はなんか

言葉でのアウトプット苦手な場合多いんですが

そんな乖離しているものでもなかったりなので

デザイナーの皆さんも、もっと文章書いた方が

いいんじゃないかなー、という思いがあります


各項で文字数を揃えるという遊びをしていますが

ほとんど後輩デザイナーにむけた私信ですねこれ

「カレーうどん」というイノベーションの話。

カレーうどんの話をします。

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写真は豊橋カレーうどんというもので

とろろご飯の上にカレーうどんが盛られていて

炭水化物 on 炭水化物 on 炭水化物 on 炭水化物 という

B級グルメブームによって生み出された悲しい食べ物です。

でもおいしい。


2016年現在、日本中で食べられるカレーうどんですが

明治初期に生まれた食べ物で

最初にうどんにカレーを合わせようとした人は

頭がちょっとアレ

ではなく

不真面目な天才だったのだと思います。


カレーうどんは、文明開化の波による洋食ブームみたいな流れの中で

三朝庵というおそば屋さんが

それに対抗すべく洋食を取り入れ発明したという話があります。

でもたぶんこれ

研鑽を重ねて生み出したというか

着想はけっこう雑で

「米にあうならうどんでもいけそうじゃね?」

的な不真面目なノリの結果では、という想像があります。


ちなみに三朝庵は早稲田にあるので

早稲田大学の悪ノリ文化がマッチして浸透したんじゃないかという予想もありますが

これは中高大学10年早稲田に通っていた僕が言うので確信に近い。


すごい真面目で、例えば和食一筋という人で

こういう状況だったら

自分の得意分野のフィールド内でブラッシュアップしていくと思うんですね

出汁の調合をグラム単位で変えたりとか

うどんの粉の調合を日々調整したりとか


そうではなくて

対極にある要素もよければちゃんと取り込んだり

ジャストアイディアもとりあえずやっちゃう

というのが新しいものを産んだりするんじゃないかな

と思ったりしてます。


得意分野のスキルや知識であれこれ改善していく

というのはもちろん大事なんですが

本当にイノベーティブなことを引き起こすには

ある意味自分のフィールドへの

執着のなさというか

不真面目さが必要なんではないかな、と

豊橋カレーうどんを食べて思いました。


ちなみにカレーうどんはそんなに好きじゃないので

いつもカレー蕎麦食べてます。

カレーうどんはカレーの着弾率が高すぎます。

デザイナーの評価についてうんぬん

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インターネット界隈でデザイナーとして働き始めて10年以上経ていて

採用やら査定やら、デザイナーに対して何がしかの評価をしなければならない場面に遭遇しがちなのですが

なんかすごい難しいなあ、といつも思ってます。


特に自社でサービスを運営しているような会社のデザイナーには顕著ですが

アサインされたサービスが成功している is デザイナーとしてすごい

みたいな評価になりがちというか、だいたいそうで

よきプロジェクトに巡り会えずに能力のあるデザイナーが無を迎えているのをしばしばみかけます。

サービスの成否は変数多すぎて

個の力ではなんかどうしようもないことも多いので

事業成果での判断のみというのもどうかなあ、と思っています。


なんか真面目すぎるなと思ったので、いったんカレーうどんの写真をのせます。

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カレーうどんは天才の作った最も不真面目な食べ物である」という言説についてはまた別で書きます。


もちろん会社なので、事業成果が評価に一番影響するというのは理解した上で

その人のデザイナーとしての能力・スキル・マインドセットを評価判断できる機関ないしは機能

組織にきちんと備えておくことが必要なのだろうなと思う次第です。


とはいえ、デザイナーの能力可視化するの難しい問題は100年くらい解決の糸口が見えないので

デザイナーの業務役割を細分化して、それぞれの組織でそれを遂行するため能力を抽出して

事業のフェーズに応じて、都度重み付けして評価する、みたいなのが妥当なのかなあ、と。


もやもやは続きます。

人間性について難がある

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他のエントリにも見られるように人間性について難があります。

特に自覚しているところが2つあって

自由行動を阻害されることに強い◯意を覚えるところと

人を誑かすことに快感を覚えるというところ

があります。


特に前者は社会生活を送る上で生きづらい性質としてのそれで

並ぶ、待つという行為が強いストレスになったり

狭い通路で隊列を組んで歩いている人たちに歩くスピードを制限されたりすると無双したくなったり

自身の場所や所属を制限されたりすると全てを捨て去りたくなったりするので

なかなかの無があります。


後者については、よく言えば人を驚かせることが好き、とか言えるのかもしれませんが

たぶらかしている最中の人たちの行動を観察して楽しむというほうに主眼があり

うまいこと築いてきた人間関係や信頼をひっくり返す瞬間に趣を感じている節があるので

正常な人間関係を構築することが困難という学びがあります。


(全部嘘で本当の話)