not simple

デザインと言葉の実験です

文章とデザイン

文章を書くことと、デザインはすごく似ているなあ、という最近の学びについて書きます

この文中でのデザインという言葉は、一般的な人が想起するであろうデザインのイメージ

要はビジュアルデザインやUIデザインなど、目に見えるデザインとしてのそれとなります

前提

言葉を使って物事をわかりやすく人に伝えるという能力に

長けているというか多分その手の天才が隣で仕事をしてて

その彼がプレゼン資料やブログを書いている様を見ていて

「ああ、これはデザインだ。」という思いに至っています

書くこと≒デザイン

文章もデザインも伝えたいことを整理してアウトプットするというもの

乱雑なアイディアの群れを捨てたり足したりして一つの塊を産むところや

どちらも基礎ができてなければ自由な表現が難しいというところも同じで

良いと思ってたものをいざ形にすると実はカスだったりするところも同じ

どれだけ推敲に推敲を重ねたとしてもそれが誰かに届いた時に響くか否か

実際に世に出してみて、フィードバックを得て初めてわかる点も同じです

文章が(ちゃんと)書ければたぶんデザインはできる

デザインのプロセスは発想の発散→取捨選択→整理の繰り返し

これは文章を組み立てる時の思考のプロセスと、とても似ていて

少なくともロジックであれこれするパートのデザインについては

きちんと意図を伝えるための文章を組み立てられる人だったなら

比較的簡便で単純なインターフェースのデザインくらいだったら

ちょっとソフトウェアの使い方を覚えればできちゃうんだろうな

という、デザイナーとして生きてる身としては危機感があります

逆も然り

文章を書くことは思考の整理の訓練にもなるし

デザイナーという肩書きで生きてる人はなんか

言葉でのアウトプット苦手な場合多いんですが

そんな乖離しているものでもなかったりなので

デザイナーの皆さんも、もっと文章書いた方が

いいんじゃないかなー、という思いがあります


各項で文字数を揃えるという遊びをしていますが

ほとんど後輩デザイナーにむけた私信ですねこれ

「カレーうどん」というイノベーションの話。

カレーうどんの話をします。

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写真は豊橋カレーうどんというもので

とろろご飯の上にカレーうどんが盛られていて

炭水化物 on 炭水化物 on 炭水化物 on 炭水化物 という

B級グルメブームによって生み出された悲しい食べ物です。

でもおいしい。


2016年現在、日本中で食べられるカレーうどんですが

明治初期に生まれた食べ物で

最初にうどんにカレーを合わせようとした人は

頭がちょっとアレ

ではなく

不真面目な天才だったのだと思います。


カレーうどんは、文明開化の波による洋食ブームみたいな流れの中で

三朝庵というおそば屋さんが

それに対抗すべく洋食を取り入れ発明したという話があります。

でもたぶんこれ

研鑽を重ねて生み出したというか

着想はけっこう雑で

「米にあうならうどんでもいけそうじゃね?」

的な不真面目なノリの結果では、という想像があります。


ちなみに三朝庵は早稲田にあるので

早稲田大学の悪ノリ文化がマッチして浸透したんじゃないかという予想もありますが

これは中高大学10年早稲田に通っていた僕が言うので確信に近い。


すごい真面目で、例えば和食一筋という人で

こういう状況だったら

自分の得意分野のフィールド内でブラッシュアップしていくと思うんですね

出汁の調合をグラム単位で変えたりとか

うどんの粉の調合を日々調整したりとか


そうではなくて

対極にある要素もよければちゃんと取り込んだり

ジャストアイディアもとりあえずやっちゃう

というのが新しいものを産んだりするんじゃないかな

と思ったりしてます。


得意分野のスキルや知識であれこれ改善していく

というのはもちろん大事なんですが

本当にイノベーティブなことを引き起こすには

ある意味自分のフィールドへの

執着のなさというか

不真面目さが必要なんではないかな、と

豊橋カレーうどんを食べて思いました。


ちなみにカレーうどんはそんなに好きじゃないので

いつもカレー蕎麦食べてます。

カレーうどんはカレーの着弾率が高すぎます。

デザイナーの評価についてうんぬん

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インターネット界隈でデザイナーとして働き始めて10年以上経ていて

採用やら査定やら、デザイナーに対して何がしかの評価をしなければならない場面に遭遇しがちなのですが

なんかすごい難しいなあ、といつも思ってます。


特に自社でサービスを運営しているような会社のデザイナーには顕著ですが

アサインされたサービスが成功している is デザイナーとしてすごい

みたいな評価になりがちというか、だいたいそうで

よきプロジェクトに巡り会えずに能力のあるデザイナーが無を迎えているのをしばしばみかけます。

サービスの成否は変数多すぎて

個の力ではなんかどうしようもないことも多いので

事業成果での判断のみというのもどうかなあ、と思っています。


なんか真面目すぎるなと思ったので、いったんカレーうどんの写真をのせます。

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カレーうどんは天才の作った最も不真面目な食べ物である」という言説についてはまた別で書きます。


もちろん会社なので、事業成果が評価に一番影響するというのは理解した上で

その人のデザイナーとしての能力・スキル・マインドセットを評価判断できる機関ないしは機能

組織にきちんと備えておくことが必要なのだろうなと思う次第です。


とはいえ、デザイナーの能力可視化するの難しい問題は100年くらい解決の糸口が見えないので

デザイナーの業務役割を細分化して、それぞれの組織でそれを遂行するため能力を抽出して

事業のフェーズに応じて、都度重み付けして評価する、みたいなのが妥当なのかなあ、と。


もやもやは続きます。

人間性について難がある

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他のエントリにも見られるように人間性について難があります。

特に自覚しているところが2つあって

自由行動を阻害されることに強い◯意を覚えるところと

人を誑かすことに快感を覚えるというところ

があります。


特に前者は社会生活を送る上で生きづらい性質としてのそれで

並ぶ、待つという行為が強いストレスになったり

狭い通路で隊列を組んで歩いている人たちに歩くスピードを制限されたりすると無双したくなったり

自身の場所や所属を制限されたりすると全てを捨て去りたくなったりするので

なかなかの無があります。


後者については、よく言えば人を驚かせることが好き、とか言えるのかもしれませんが

たぶらかしている最中の人たちの行動を観察して楽しむというほうに主眼があり

うまいこと築いてきた人間関係や信頼をひっくり返す瞬間に趣を感じている節があるので

正常な人間関係を構築することが困難という学びがあります。


(全部嘘で本当の話)

UI/UXデザイナーのみなさん。

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こんにちは。


なぜかインターネット界隈のデザイナーの採用に関わるポジションにいることが多く

過去にデザイナーのポートフォリオを4桁は見ていて、3桁以上のデザイナーと面接しているんですが

比較的地雷だったりするのがUI/UXデザイナーと自称する方、という経験があります。


スマートフォンをはじめとするタッチデバイス全盛の昨今

ユーザーインターフェイス(UI)がユーザーエクスペリエンス(UX)に影響する度合いが大きいというのに理解はあるのですが

前者と後者でそもそも抽象度が違いすぎるし、スキルセットも違うので

安易にUI/UXデザイナーと称することはオススメしていません。

稀にこの間を行き来できる方をお見かけしますが、本当に稀でお会いできたのはまだ1桁です。


よくあるのが実はただの

Photoshopおじさんだったり

Sketchプラグイン探求おじさんだったり

ワイヤーに色塗りするのが仕事おじさんだったり

抽象化おじさんだったり

フレームワークおじさんだったり

ユーザーテストおじさんだったり

プロトタイプ作るのが手段の目的化してるおじさんだったり

します。

すごく自戒の意味の強い文ですね。


これらを総合的にできるようになって、UI/UXデザイナーという肩書きとつり合うのかな、と思っていて

ひとりでやるには辛すぎるし

なおかつUI/UXというのが一種のバスワードとして取り扱われていて

採用側が安易に使ってしまっているのがそもそもの問題ということもあり

UXをきちんと学術的に研究研鑽している人に申し訳ないという気持ちも込めて

あらためて、UI/UXデザイナーといういいかたは滅びを迎えてほしいと切に思っています。


さようなら

クリスチャン・ボルタンスキー 「アニミタス-さざめく亡霊たち」 @東京都庭園美術館

クリスチャン・ボルタンスキーについては、大地の芸術祭のブログで偏狭的かつ愛しかない表現で書いたのですが、そのボルタンスキーの展示が東京目黒にある庭園美術館で開催されているので、それはもう最高という話をします。

その時の記事はこちら。

www.teien-art-museum.ne.jp



東京都庭園美術館について

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外観はこのような感じです。

都内では原美術館と並んで好きな美術館なのですが、もとは昭和初期に建造され朝香宮の邸宅として利用されていた建物で、内部の装飾として当時フランスで全盛だったアール・デコの様式をふんだんに使った豪奢な建築を楽しめます。

本館は土日祝日以外は内部の撮影が可能なので、ここらあたりの建築が好きな方は平日訪れることをオススメします。

現在は庭園に接した新館を渡り廊下で繋いだ形となっています。



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庭園はゆったりと広く、最高感があります。



展覧会「アニミタス-さざめく亡霊たち」

以下は新館の展示です。



「眼差し」「帰郷」

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このような透けた布に大きな目をプリントしたカーテンで、新館のギャラリー全体を迷路のように覆います。こちらの作品名は「眼差し」。



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「眼差し」と同じギャラリーの中心に山のように鎮座する「帰郷」は金色のエマージェンシー・ブランケットを大量の古着で覆ったものだそうです。

ボルタンスキーにとって、古着とは「不在」のメタファーであって、それが金で覆われて無数の表情のない眼差しが見つめているというのは

いかにもボルタンスキーらしい皮肉な表現とも言えそうです。



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ギャラリー内にはほぼ等間隔で、ボルタンスキーの表現において「生命の表現=心臓」としての「電球」がぶらさがっています。

本館2階にも、鼓動音とリンクした赤く点滅する電球を見ることができます。



「アニミタス」「ささやきの森」

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干草が敷き詰められたギャラリーに大きなディスプレイ両面に映像作品が展示されています。こちらも新館のギャラリーに展示してあります。



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こちらが「アニミタス」



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こちらが「ささやきの森」です。



前者はアタカマ砂漠、後者は豊島に設置されたものだそうです。

普通であればありえない「砂漠」「森林」「干草の香り」「風鈴の音」が共存しているところが単純に面白いので

ボルタンスキーのテーマとしての「生と死」みたいな重苦しいことは置いておいて楽しめます。


ちなみに、風鈴はこの作品の中で「魂」としてのそれで、無機物を生命や死のメタファーとして扱うのがボルタンスキーの特徴です。

大地の芸術祭でも見れますが、「干草」「電球」「扇風機」「古着」あたりがよく用いられています。



まとめ

上記の新館の展示作品ほどの派手さはありませんが

本館の展示も、建物自体に配置されたスピーカーからささやきが聞こえる「亡霊のさざめき」

2F書庫に配置された「心臓音」などの展示があり、建物の趣と相まって楽しめます。

おそらく現代アートに分類されるアーティストとしては、かなりわかりやすい部類に入ると思うので

庭園の散策がてら行ってみるのをオススメします。

なかなかの最高感でした。

デザイナーは抽象と具象の間を這いずり回る

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前回デザインについて感性と論理の2軸で書いたのですが、抽象と具象の2軸も良く考える話だな、と。

けっこう常に意識的にしている観点なのですが、社内のデザイナー向け勉強会で使う「新人デザイナーにデザインのレビューをするときに注意してる10のこと」みたいな資料をまとめている際に

「具体的で細かい指摘をしている直後に突然抽象度の高い話を振って混乱させて惑わせる思考を活性化させる」みたいな章があったので、改めて言語化しておこうというものです。

具象化すること、抽象化すること

デザイナーにとって抽象化する力と具象化(具体化)する力を兼ね備えている(もしくはきちんと意識している)というのはジャンルに限らずすごく大事だと思っていたりします。

まあすごく雑にいうと「ふわっとしたものの本質を捉え(抽象化)、目に見える形にする力(具象化)」を持っている、みたいなかんじでしょうか。

具象化する力

こちらは比較的わかりやすくて、ある程度要件が見えたタイミングで、早く正確にアウトプットできる力だと思っています。

たくさんの良いものを見たり聞いたり、勉強によって王道やアンチパターンをたくさん覚えたり、経験によって脳内にビジュアルが浮かび上がるまでの速度が上がったり

そもそも数をこなせば手は早くなったりするので

具象化する力は怠らなければ自然に伸びていくと思われます。

とはいえ経験がまだそんなにないデザイナーには「いいから手を動かせ」というワードを頻発します。

後述する抽象化する力が育っていても、それを形にする力が育ってないと、デザイナーとして完結できないというのもあります(少なくともお仕事として)。

余談ですが、アンチパターンをたくさん見ておくと、自分でやらなくなるのでオススメしています。バスや電車の広告、特に弁護士事務所のそれとかオススメです。

抽象化する力

抽象化とは、Wikipediaから引用すると「対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は無視する方法」とのことです。

これまた雑にいってしまうと、「対象や要件の本質をとらえる」みたいなかんじでしょうか。

雑な例をあげると、

「Twitterみたいなサービスを作りたいんだけど、なんかこう、やっぱり水色っぽい感じで」

「ウェブサイトのリニューアルをしたいんだけど、なんかこう、かっこよくしたい」

「花を使ったデザインというのは決まっているのだけど、なんかこう、いくつか提案いただいて良いですか」

「なんかこう、もう少しシュッとした感じに」

「なんかこう、いい感じに」


極端な例だと思いますか?残念ながらよくあります。

こういったふんわりしたオーダーから、モノの本質やクライアントの意図などを抽出・還元する力もデザイナーには必要で、「問いかけ引き出す力」といってもよさそうです。


雑な例をそのまま再利用すると

Twitterみたいなサービスを作りたいんだけど、なんかこう、やっぱり水色っぽい感じで」

サービスで提供したい価値とは?色は提供先のユーザー属性に合わせて調整したほうが良いかと思われます。

「ウェブサイトのリニューアルをしたいんだけど、なんかこう、かっこよくしたい」

リニューアルの意図とは?継続的なメンテナンスができなければ、むしろ作らないほうが良いかもしれませんね。

「花を使ったデザインというのは決まっているのだけど、なんかこう、いくつか提案いただいて良いですか」

花を使う意図とは?顧客に提供したいイメージを一緒に考えませんか?

「なんかこう、もう少しシュッとした感じに」

シュッとは?

「なんかこう、いい感じに」

いい感じとは?いい感じとは?いい感じとは?いい感じとは?いい感じとは?いい感じとは?

あなたのいい感じを把握するまで私は質問をやめない。




このように、オーダーに対してきちんとその意図や成し遂げたい本質を引き出すことも一つの大事な素養なのだろうな、と思っています。

意外に根気の必要なことなので、一番大事なのは、デザイナー自身が問いかけることをあきらめないこと、なのだと思っています。気持ちの問題です。

デザインは正解を得る確固たる手法がないという悲しい世界なので、打率を上げるためにも、根元の部分をきちんと確認、引き出す力が必要かな、と思っています。

まとめ

抽象と具象の間を上手に渡り歩いて、どちらの力も育てていけるのがデザイナーとしてはハッピーなのかな、と思います。


なお、タイトルが「デザイナーは抽象と具象の間を這いずり回る」という地獄感があるのは

バファリンロキソニンが効かない悲しい頭痛で這いずり回りながら書いているからです。

特にバファリンには絶対の信頼を置いていたので残念ですね。