not simple

デザインと言葉の実験です

デザイナーの評価についてうんぬん

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インターネット界隈でデザイナーとして働き始めて10年以上経ていて

採用やら査定やら、デザイナーに対して何がしかの評価をしなければならない場面に遭遇しがちなのですが

なんかすごい難しいなあ、といつも思ってます。


特に自社でサービスを運営しているような会社のデザイナーには顕著ですが

アサインされたサービスが成功している is デザイナーとしてすごい

みたいな評価になりがちというか、だいたいそうで

よきプロジェクトに巡り会えずに能力のあるデザイナーが無を迎えているのをしばしばみかけます。

サービスの成否は変数多すぎて

個の力ではなんかどうしようもないことも多いので

事業成果での判断のみというのもどうかなあ、と思っています。


なんか真面目すぎるなと思ったので、いったんカレーうどんの写真をのせます。

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カレーうどんは天才の作った最も不真面目な食べ物である」という言説についてはまた別で書きます。


もちろん会社なので、事業成果が評価に一番影響するというのは理解した上で

その人のデザイナーとしての能力・スキル・マインドセットを評価判断できる機関ないしは機能

組織にきちんと備えておくことが必要なのだろうなと思う次第です。


とはいえ、デザイナーの能力可視化するの難しい問題は100年くらい解決の糸口が見えないので

デザイナーの業務役割を細分化して、それぞれの組織でそれを遂行するため能力を抽出して

事業のフェーズに応じて、都度重み付けして評価する、みたいなのが妥当なのかなあ、と。


もやもやは続きます。

人間性について難がある

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他のエントリにも見られるように人間性について難があります。

特に自覚しているところが2つあって

自由行動を阻害されることに強い◯意を覚えるところと

人を誑かすことに快感を覚えるというところ

があります。


特に前者は社会生活を送る上で生きづらい性質としてのそれで

並ぶ、待つという行為が強いストレスになったり

狭い通路で隊列を組んで歩いている人たちに歩くスピードを制限されたりすると無双したくなったり

自身の場所や所属を制限されたりすると全てを捨て去りたくなったりするので

なかなかの無があります。


後者については、よく言えば人を驚かせることが好き、とか言えるのかもしれませんが

たぶらかしている最中の人たちの行動を観察して楽しむというほうに主眼があり

うまいこと築いてきた人間関係や信頼をひっくり返す瞬間に趣を感じている節があるので

正常な人間関係を構築することが困難という学びがあります。


(全部嘘で本当の話)

UI/UXデザイナーのみなさん。

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こんにちは。


なぜかインターネット界隈のデザイナーの採用に関わるポジションにいることが多く

過去にデザイナーのポートフォリオを4桁は見ていて、3桁以上のデザイナーと面接しているんですが

比較的地雷だったりするのがUI/UXデザイナーと自称する方、という経験があります。


スマートフォンをはじめとするタッチデバイス全盛の昨今

ユーザーインターフェイス(UI)がユーザーエクスペリエンス(UX)に影響する度合いが大きいというのに理解はあるのですが

前者と後者でそもそも抽象度が違いすぎるし、スキルセットも違うので

安易にUI/UXデザイナーと称することはオススメしていません。

稀にこの間を行き来できる方をお見かけしますが、本当に稀でお会いできたのはまだ1桁です。


よくあるのが実はただの

Photoshopおじさんだったり

Sketchプラグイン探求おじさんだったり

ワイヤーに色塗りするのが仕事おじさんだったり

抽象化おじさんだったり

フレームワークおじさんだったり

ユーザーテストおじさんだったり

プロトタイプ作るのが手段の目的化してるおじさんだったり

します。

すごく自戒の意味の強い文ですね。


これらを総合的にできるようになって、UI/UXデザイナーという肩書きとつり合うのかな、と思っていて

ひとりでやるには辛すぎるし

なおかつUI/UXというのが一種のバスワードとして取り扱われていて

採用側が安易に使ってしまっているのがそもそもの問題ということもあり

UXをきちんと学術的に研究研鑽している人に申し訳ないという気持ちも込めて

あらためて、UI/UXデザイナーといういいかたは滅びを迎えてほしいと切に思っています。


さようなら

クリスチャン・ボルタンスキー 「アニミタス-さざめく亡霊たち」 @東京都庭園美術館

クリスチャン・ボルタンスキーについては、大地の芸術祭のブログで偏狭的かつ愛しかない表現で書いたのですが、そのボルタンスキーの展示が東京目黒にある庭園美術館で開催されているので、それはもう最高という話をします。

その時の記事はこちら。

www.teien-art-museum.ne.jp



東京都庭園美術館について

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外観はこのような感じです。

都内では原美術館と並んで好きな美術館なのですが、もとは昭和初期に建造され朝香宮の邸宅として利用されていた建物で、内部の装飾として当時フランスで全盛だったアール・デコの様式をふんだんに使った豪奢な建築を楽しめます。

本館は土日祝日以外は内部の撮影が可能なので、ここらあたりの建築が好きな方は平日訪れることをオススメします。

現在は庭園に接した新館を渡り廊下で繋いだ形となっています。



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庭園はゆったりと広く、最高感があります。



展覧会「アニミタス-さざめく亡霊たち」

以下は新館の展示です。



「眼差し」「帰郷」

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このような透けた布に大きな目をプリントしたカーテンで、新館のギャラリー全体を迷路のように覆います。こちらの作品名は「眼差し」。



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「眼差し」と同じギャラリーの中心に山のように鎮座する「帰郷」は金色のエマージェンシー・ブランケットを大量の古着で覆ったものだそうです。

ボルタンスキーにとって、古着とは「不在」のメタファーであって、それが金で覆われて無数の表情のない眼差しが見つめているというのは

いかにもボルタンスキーらしい皮肉な表現とも言えそうです。



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ギャラリー内にはほぼ等間隔で、ボルタンスキーの表現において「生命の表現=心臓」としての「電球」がぶらさがっています。

本館2階にも、鼓動音とリンクした赤く点滅する電球を見ることができます。



「アニミタス」「ささやきの森」

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干草が敷き詰められたギャラリーに大きなディスプレイ両面に映像作品が展示されています。こちらも新館のギャラリーに展示してあります。



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こちらが「アニミタス」



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こちらが「ささやきの森」です。



前者はアタカマ砂漠、後者は豊島に設置されたものだそうです。

普通であればありえない「砂漠」「森林」「干草の香り」「風鈴の音」が共存しているところが単純に面白いので

ボルタンスキーのテーマとしての「生と死」みたいな重苦しいことは置いておいて楽しめます。


ちなみに、風鈴はこの作品の中で「魂」としてのそれで、無機物を生命や死のメタファーとして扱うのがボルタンスキーの特徴です。

大地の芸術祭でも見れますが、「干草」「電球」「扇風機」「古着」あたりがよく用いられています。



まとめ

上記の新館の展示作品ほどの派手さはありませんが

本館の展示も、建物自体に配置されたスピーカーからささやきが聞こえる「亡霊のさざめき」

2F書庫に配置された「心臓音」などの展示があり、建物の趣と相まって楽しめます。

おそらく現代アートに分類されるアーティストとしては、かなりわかりやすい部類に入ると思うので

庭園の散策がてら行ってみるのをオススメします。

なかなかの最高感でした。

デザイナーは抽象と具象の間を這いずり回る

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前回デザインについて感性と論理の2軸で書いたのですが、抽象と具象の2軸も良く考える話だな、と。

けっこう常に意識的にしている観点なのですが、社内のデザイナー向け勉強会で使う「新人デザイナーにデザインのレビューをするときに注意してる10のこと」みたいな資料をまとめている際に

「具体的で細かい指摘をしている直後に突然抽象度の高い話を振って混乱させて惑わせる思考を活性化させる」みたいな章があったので、改めて言語化しておこうというものです。

具象化すること、抽象化すること

デザイナーにとって抽象化する力と具象化(具体化)する力を兼ね備えている(もしくはきちんと意識している)というのはジャンルに限らずすごく大事だと思っていたりします。

まあすごく雑にいうと「ふわっとしたものの本質を捉え(抽象化)、目に見える形にする力(具象化)」を持っている、みたいなかんじでしょうか。

具象化する力

こちらは比較的わかりやすくて、ある程度要件が見えたタイミングで、早く正確にアウトプットできる力だと思っています。

たくさんの良いものを見たり聞いたり、勉強によって王道やアンチパターンをたくさん覚えたり、経験によって脳内にビジュアルが浮かび上がるまでの速度が上がったり

そもそも数をこなせば手は早くなったりするので

具象化する力は怠らなければ自然に伸びていくと思われます。

とはいえ経験がまだそんなにないデザイナーには「いいから手を動かせ」というワードを頻発します。

後述する抽象化する力が育っていても、それを形にする力が育ってないと、デザイナーとして完結できないというのもあります(少なくともお仕事として)。

余談ですが、アンチパターンをたくさん見ておくと、自分でやらなくなるのでオススメしています。バスや電車の広告、特に弁護士事務所のそれとかオススメです。

抽象化する力

抽象化とは、Wikipediaから引用すると「対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は無視する方法」とのことです。

これまた雑にいってしまうと、「対象や要件の本質をとらえる」みたいなかんじでしょうか。

雑な例をあげると、

「Twitterみたいなサービスを作りたいんだけど、なんかこう、やっぱり水色っぽい感じで」

「ウェブサイトのリニューアルをしたいんだけど、なんかこう、かっこよくしたい」

「花を使ったデザインというのは決まっているのだけど、なんかこう、いくつか提案いただいて良いですか」

「なんかこう、もう少しシュッとした感じに」

「なんかこう、いい感じに」


極端な例だと思いますか?残念ながらよくあります。

こういったふんわりしたオーダーから、モノの本質やクライアントの意図などを抽出・還元する力もデザイナーには必要で、「問いかけ引き出す力」といってもよさそうです。


雑な例をそのまま再利用すると

Twitterみたいなサービスを作りたいんだけど、なんかこう、やっぱり水色っぽい感じで」

サービスで提供したい価値とは?色は提供先のユーザー属性に合わせて調整したほうが良いかと思われます。

「ウェブサイトのリニューアルをしたいんだけど、なんかこう、かっこよくしたい」

リニューアルの意図とは?継続的なメンテナンスができなければ、むしろ作らないほうが良いかもしれませんね。

「花を使ったデザインというのは決まっているのだけど、なんかこう、いくつか提案いただいて良いですか」

花を使う意図とは?顧客に提供したいイメージを一緒に考えませんか?

「なんかこう、もう少しシュッとした感じに」

シュッとは?

「なんかこう、いい感じに」

いい感じとは?いい感じとは?いい感じとは?いい感じとは?いい感じとは?いい感じとは?

あなたのいい感じを把握するまで私は質問をやめない。




このように、オーダーに対してきちんとその意図や成し遂げたい本質を引き出すことも一つの大事な素養なのだろうな、と思っています。

意外に根気の必要なことなので、一番大事なのは、デザイナー自身が問いかけることをあきらめないこと、なのだと思っています。気持ちの問題です。

デザインは正解を得る確固たる手法がないという悲しい世界なので、打率を上げるためにも、根元の部分をきちんと確認、引き出す力が必要かな、と思っています。

まとめ

抽象と具象の間を上手に渡り歩いて、どちらの力も育てていけるのがデザイナーとしてはハッピーなのかな、と思います。


なお、タイトルが「デザイナーは抽象と具象の間を這いずり回る」という地獄感があるのは

バファリンロキソニンが効かない悲しい頭痛で這いずり回りながら書いているからです。

特にバファリンには絶対の信頼を置いていたので残念ですね。

感性と論理の話.design

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予約したiPhone7 Plusの入荷予定の連絡がこないので、iPhone7 Plusとは実在しない概念上の存在かもしれないという気づきを得たので表象としてのデザインの話をします。雑にいうと見た目のデザインの話です。

デザインについて、僕の思考のブームとして「感性と論理」みたいなところがあります。ブームというか常に考えていることが言語化され始めたというそれでもあります。

感性と論理

デザインは論理的に全て説明できる、という言説があります。

デザインは先人の優れた理論や原則に基づいてなされます。黄金比色相環認知心理学など、デザインの裏付けをしてくれる多くの知恵があります。

この観点でみると、デザインは「良い」「悪い」、あるいは「正しい」「間違い」という評価が可能で、デザインが不適切なことを指摘するのは容易です。

デザインが「悪い」は簡単にいえる

背景が真っ黒なときにその上にのせる文字が真っ黒であればそのデザインは「情報を伝えることができない」という意味で悪いデザインです。

食べ物を販売するウェブサイトでテーマカラーに冷たい水色や蛍光色のような黄緑を使えば「食欲や購買意欲を誘う色は暖色である」という意味で悪いとは言わないものの適切でないデザインです。

アンパンマンの色使いが紫であれば誰も彼をかじることはありません。

インテリアのカタログの写真が1cm x 1cmという大きさであれば、それを手にする人の「要望を満たせない」ので不合格となります。

スーパーのチラシが美しく整えられたHerveticaのような書体で作られていたらそれは間違いかもしれません。

デザインが「良い」はいうのは以外に難しい

一方でデザインが良いというのは、点の指摘になりがちで意外に難しいなあ、とも思っています。

全盛期のApple製品、例えばiPhone4あたりを例にしてあくまでも見た目の部分でいうと、フラットなカッティングだったり、マットな素材感だったり、コンテンツを邪魔しないミニマムなデザインが良い、と言えたりするのですが

それは点としての指摘であって、プロダクト全体としてなぜそれが良いデザイン、というのはロジックのみで語るのが難しかったりします。

デザインは全体の調和としてのそれであるので、点の積み上げで評価すべきものでもない、というのもあります。

デザインに関する感性としての「好き」「嫌い」

見た目のデザインに関しては「好き」「嫌い」というフィーリングとしての評価があります。

非常に主観的で評価する側の感性に依存するため、デザイナーはあえてこの表現を避ける傾向がありますが、個人的にはこの観点が大事だと思っていて

ちょっとロジックを外れていても、愛嬌のあるデザインは存在しますし、気に入らないところがあってもそれを上回る気にいるところがあれば「デザインが好き(良い)」という発言はできます。

デザインの評価をロジックのみで語ると、デザインの評価をデザイナーしかできない、という危険性もあります。

まとめ(られてない)

いろいろ書きましたが、どれだけロジックを積み立てても、好きという感情に勝てない、というのが本音です。

なんとなく、僕が反射的に良いデザインだなー、と思うのはデザインとしてやっちゃいけないこと(ロジックで排除できる部分)をした上で、その時々の好みに合致したものなんだろうな、と思いました。

iPhone7 Plus の入荷情報は届きませんでしたし、結論はありませんでした。

篠山紀信『快楽の館』@原美術館

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都内の美術館の中では東京都庭園美術館原美術館が空間として最高というのは揺るぎない事実としてあるのですが、その原美術館を舞台に篠山紀信が展示をするという緊急案件が発生したので行ってきました。

原美術館の素晴らしさについてざっくり

原美術館は現代美術を主に扱う美術館で、奈良美智「My Drawing Room」、ジャン=ピエール・レイノー「ゼロの空間」などが常設で見れます。

もともとは実業家の原邦造の邸宅で、建築は東京都国立美術館の設計で有名な渡辺仁。

屋内の展示スペースも良いのですが、中庭を臨むカフェの最高感が強いです。

展示内容ざっくり

全ての作品は原美術館を舞台に撮影されたヌード写真です。

篠山紀信による女性の身体の、直線の一切を排除したような自然界の中で最も美しい曲線の群れを堪能できます。

原美術館は品川駅から少し離れた閑静な住宅街にひっそりと佇んでいてとても趣がある美術館なのですが、そこでヌード作品が展示されるというコントラストがそもそも素晴らしいです。

前述の「My Drawing Room」などの常設スペースにも入り込んで撮影しているので、奈良美智の作品とヌードのコラボレーションという希少な表現もあります。

写真を撮ったその場で展示するという写真表現の記録としての役割の破棄としてのそれで、アートとしてのそれなんだろうな、とふんわり思いました。

まとめ

12月までやってるので見に行ったほうがいいです。

CINRA の記事が良かったので貼っときます。

www.cinra.net