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デザインと言葉の実験です

たこ焼きという魔

たこ焼きをご存知だろうか。

 

良識ある諸兄にこんな問いを投げかけるのは甚だ無礼と知っている。たこ焼きとはご存知の通り、緩く出汁でといた小麦粉に具材をまぜ入れ、球形に焼き上げたものだ。特に主役となる具としてたこが選択されるからその名がある。

 

稀に、たこそのものを丸焼きにして、たこ焼きと称して売る店もあるから油断がならない。それはたこを焼いたものの名称として間違いではないが、社会通念上許される表記ではない。これについてはいくつか訴訟が行われ、判例もあるのだが、法の整備が追いついていない現状に心を傷めている。

 

さて、たこ焼きとは魔である。何を言っているのかわからないと思われた方は正常である。そのまま生を謳歌するべきで、魔にまみれる前に一生を遅滞なく終了するべきである。

 

たこ焼きの中毒性、いや、中毒などという治療可能な事象とは比べ物にならない、それこそ悪魔の誘惑のような魅力がたこ焼きにはあり、一度体内に取り入れたが最後、人はたこ焼きに執着し、依存し、やがて人間が終了してしまう。

 

たこ焼きの起源としては大阪西成区とされているが、紀元前ギリシャ城址の攻略の際、兵士の士気を下げ無力化するため、今でいうバイオ兵器のような使い方でたこ焼きが使われたこともあるという文献もある。それだけ、たこ焼きは魔であり、根源的なそれなのだ。

 

たこ焼きを食べたいと思う瞬間、それは貴兄を、魔の道に誘導し、誘引し、誘拐しようとしているソレがいる。誘惑に勝てるか?私はそれに勝利した人を知らない。

 

たこ焼きは魔だ。揺るぎない。揺るぎようがない。お前はいつまでソレを食べ続ける?

 

無限だ。一度食べたら無限なのだ。家で、公園で、雑踏で、店の軒先で、休日に、休憩中に、歩きながら、働きながら、眠りながら。麻薬中毒のように延々と食べ続けるのだ。

 

であれば、たこ焼きはソレそのものが無限の存在とも言えるかもしれない。無限、それは絶望だ。まさに魔だ、終わりのない哀しい事象だ。だが食べて、食べて、食べ続けて初めて見える地平があるのだろう。

 

私は到達しかねるが、とりあえずたこ焼き食べたい。